2012年9月9日日曜日

命の有効期限を感じて気持ちを整理した

不運は誰かの頭上に必ず舞い降りるというが、油断していたせいか今回は私だった。
この不運は、知れば知るほどに、私を恐怖のどん底に突き落とした。

この世を去る事に恐怖を感じたのではなく、何もかも中途半端な状態で、問題を山積みにして残してしまう事に恐怖を感じた。
それは悔しいという言葉で括るのが適切だろう。
死というものは私にとってあまりに極端で、ここに自分の身を置いてはじめて、視野が拡がり、当たり前に存在してきた大気の美しさ、自然の偉大さ、この世界の居心地の良さ、苦痛や心痛を感じる事無く過ごした日々の有り難さを感じ、本当に大事な物が何かを考えることができた。

膵臓癌の疑いを伝えられてからの数日は頭の中を様々な事が過ぎり、一人では受け止めきれず、辛く悲しく泣きそうになってしまう夜もあった。生き残る術が明確化されていない現実を知り、誰かに救いを求めて巻き込んだとしても不幸を増産するだけで解決する訳でもなく、私の気持ちはゆっくりと底へ落ちていった。
パラシュート代わりになったのは先に述べた悔しさの一言に尽きる。
底に叩きつけられ、タナトフォビアを感じ続けるような事態にならなかった事は救いだ。

どん底に落ちれば、そこに居座るか、這い上がるかを選ぶだけだ。
迷うこと無く後者を選択して、生き残る為に必要な条件を探そうと先駆者のブログを読み漁った。
そこから得られたもので重要な事は、自分にマッチする治療に辿りつく事が前提なのは勿論だが、メンタルヘルスが寿命に大きく関わり、自分で考えて行動を起こさない場合は、1-2年でこの世を去る場合が殆どで、弱気になって死を迎える事を考えたり、自己決定権を尊重しない医者を信頼しきって身を任せる場合はそれが加速するという事だ。

生存競争に打ち勝つ為に何を活力剤にするかを考えだし、目標を立てる事により自分が今から何をするべきかを整理して、すぐにやるべき事を考えた。
たまに憎たらしくてどうにかしてやりたいけど、私を一殺にした笑顔を持つ妻を不安にさせない為にどう振る舞っていくのか、できるだけ切る焼く等をせず、体を元に戻す為に原因をみつけて叩いていく事、その為に情報を精査して妙な情報に惑わされずに整合性のある治療を行なっていく事とした。

次に、何を目標にして生きていくかを明確にしようと考えた。
やっとつかまり立ちができるようになった我が子だが、手を差し伸べると何も疑う事なく満面の笑みで両手を離して私に身を任せてくれる。この信頼に応え小さな手を握り続けて、成長を身をもって感じる事、私を心配してくれる方に、やはりあいつは一筋縄ではいかないと思い知らせる事、経営学の根底を覆し、時代の流れを変えてやろうと目標を立て仕事に打ち込んできた時間を無駄にせずクリアする事、早くに資産を構築して妻と子と遊び呆ける事だ。

目標を立てる事により悔しさや未練がバネになり、例え命の火が消える日が近くだったとしても目標に向かって歩き続けた事に誇りを持つ事ができる。
一応の義務を唱える事で自己を否定する事もしなくてすむだろう。

先に、死というものに恐怖心は無いと述べたが、まだ子供に毛の生えた程度の大人もどきの私は理解していないだけかもしれない。こればかりは死の受け入れ態勢に入り、死に直面しないと真理に辿り着く事はできない。
死と対面した時に私は今のような気持ちでいられるのだろうか、後悔の念でふさぎ込み、毎日隠れてメソメソと泣く日々を過ごすのだろうかと考えただけで、恥ずかしくて少しニヤついてしまう私が今ここにいる。

今までの体調の変化を見ると、命の有効期限が迫ってきている事は明白だ。
幸運に恵まれなければ、足が早いと言われるこの病は、気を抜いた瞬間に死に向かい暴走するだろう。
リスクヘッジの為に緩和ケアまでは問題なく辿り着けるように試算をしたが、自分がそのような状況に陥った姿を想像する事はまだできない。
元から長生きしたいというよりは、早くに目標を達成して、後がどうにかなるなら好き放題にやってお先に宜しくの考えでいたが、それは無責任かつ不誠実であり、奇跡もチャンスも自分が前進しないと掴めないと早々に意識付ける事ができ体調も戻ってきた。

声を大きくして言える事は、今は生に対して貪欲であり、日々その欲求は増幅し続けていて、止める事はできないという事だ。
難解だけど解除できるかもしれない時限爆弾を体に縛りつけられたと思い、有効期限を延長するスパイスを吟味し、日々高くなるハードルの下を颯爽とくぐり抜ける為にタイミングを見計らう毎日だ。


死というものを考える際に役立った一文と、少し元気になれるCMを紹介したいと思います。
少し古い考えで現在の自己の原理とは異なりますが、他者がいるからこそ自分があるという事を述べています。
病気を理由に自分を見失わず、他者の為に生きる義務論を唱える事で、高慢にならず今までと変わらない生活を送る事の大切さに気付く事ができました。
後者はテレビから聞こえるフレーズが気になり検索するとホンダのCMでした。
皆さんが少しでも勇気づけられ、VTECのように寿命がぐんぐん伸びますように。

ハイデガー:
人間のあり方とは、自分が存在する事を理解し、また、それがどういう事かを問うことができる「現存在」である。現存在である人間は、世界に投げ入れられた「世界内存在」であり、世界のなかで他者と関わりながら生きている。だが、同時に、自分を世界に投げ入れることで、自分の可能性を実現していく。それが人間の本来のあり方である。
しかし、人間は他者を気遣い過ぎるあまり、自分を見失い、「ひと」へ退洛してしまう。「ひと」とは、誰でもないもの、つまり、個別的でない、匿名の存在の事である。それは人間の非本来的なあり方である。
それでも、そこから脱する事はできる。人間は自分の存在に対して不安を感じている。それは「死」への不安である。死は、誰かに変わってもらう事はできないもの、自分だけに関わるものである。この死への不安によって、人間は、自分が「死への存在」であり、個別的な存在である事に気付く。そして、人間には、「良心」がある。それは本来的な自己の呼び声である。この良心の呼び声に従って、人間は本来的なあり方を取り戻そうと決意するのである。

ホンダ-CM「負けるもんか(プロダクト編)」:



頑張っていれば、いつか報われる。
持ち続ければ、夢は叶う。
そんなのは幻想だ。

たいてい、努力は報われない。
たいてい、正義は勝てやしない。
たいてい、夢は叶わない。

そんなこと、現実の世の中ではよくあることだ。

けれど、それがどうした?
スタートはそこからだ。

新しいことをやれば、必ずしくじる。
腹が立つ。
だから、寝る時間、食う時間を惜しんで、何度でもやる。

さぁ、昨日までの自分を超えろ。
昨日までのHondaを超えろ。

負けるもんか。

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